やっほー!ゆきこだよー!
資料館ブログしげちゃんオマージュはもうすっかりお馴染み!
前回からのつづき、「自分のことを少し話す」の2回目。
中学に入ると、一気に町内の同級生と一緒の学校になり、転校生というわけでは無いけれど、転校生扱いを受ける。
同級生が沢山!同級生に女の子がいるのが嬉しかったが、付き合い方が難しく、スクールカーストの存在を思い知る。
農家の娘で、町外れからきた私はイケてない。いろいろな場所に連れて行ってもらったことがなかったりする自分を人と比べては自己肯定感が下がるばかり。
子供の頃は車を運転して自由に行き来できるわけもなく、JRやバスの時間に縛られるから、子供は可哀想だな。と思う。(電車じゃなくて一両編成のディーゼルカー!!!汽車と呼んでいる。)
八雲は汽車やバスがあるだけまだマシだと気がついたのはつい最近のこと。
気力と体力がある子はそんなこともろともせず自転車で!という感じでしたが、私には気力も体力もなかった。
やらされてる。やりたくないのにやっている。行きたくないのに行っている。という感覚でずっと生きていていた。
出来ない言い訳ばかりして、部活も勉強もろくにしない生活を送っていた。
そこから、進路を考えることになり、やりたいことなど何もなく、父に言われるがまま酪農を継ぐと言ってしまった。
娘しかいない家の最後の砦。必要とされたことがなかった(と思い込んでいた)から、少し嬉しかったし、継ぐって言うとみんな喜んでくれてたから、なんかその気になっていた。
後から聞いたら、姉たちもこの悩みにそれぞれ向き合っていて、「絶対嫌!」と断っていたそうです。少し歳が離れているので、私の世代よりも農家=ダサいの構図がキツかったようで、それを思うと私の世代は、別にいっかーと思えるほどだったと言うことだったのかなぁ。
姉たちも札幌にいたので、当たり前に学生として札幌には行きたいと思っていた。し、酪農の学校以外出してもらえない気もしていたし、なによりも、何もやりたいことがなかった。
姉たちが習っていたからと言って自分も好きかどうかはわからないが習っていたエレクトーン教室と同じように。何も考えていなかった。
担任の先生にも心配された。「誰かに言われたからやるんじゃなくて、自分で決めないと。」というようなことを言われた。今はその意味がめちゃくちゃわかる。当時はわかってるつもりになってるだけで何にもわかっていなかった。
で、そこから2年短大に行って、めっちゃ遊んで帰ってきたは良いが、打ちのめされること山の如し。現実は甘くなかった。
苦かった。辛かった。生きるのをやめたかった。
ちゃんと自分で考えないとダメだった。甘い考えで継ぐと言った自分を呪った。笑えなくなってしまっていた。
生きるのをやめるのも怖かったのでやめた。
三年で酪農業は辞めさせてもらって、期待に応えられず、ここでも自己肯定感下がりまくり。
家族で働くって想像以上に大変だった。
自分って本当最悪の最低。
自信の無い日々はつづく。
、、、この先に今の元気印な私がいるので安心してください!もう少し続きを話したい気持ちがあります。